#18 無邪気な絶望と100円の自由

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第18回の今回は、2022年の1月に散歩しながら考えていたことをエッセイのように書くという新しい挑戦をしました。


 1月の終わりに差し掛かり、設計課題を終えて本格的に期末試験の勉強を始める前に束の間の休憩をとった。いつも、課題や試験に追われているときは、「はやく解放されてやりたい事がたくさんある」と思うのだけれど、いざ解放されるとやりたいことなど何も思い浮かばない。

 映画を見ることも、ラジオを聴くことも、本を読むことも、楽しいのだけれど今求めているものはこれらではない。映画を見ても、音楽を聞いても、ラジオを聴いても、他にもっと楽しいことがあるけれどそれをまだ知らないだけ。という心の穴がずっとある。本だけは少し違うかな。たまに、紙の本を巡りながらあれこれと思いを巡らせていると本当の自由を手に入れる瞬間がある。でも、今はそんな知的な楽しみは求めていなかった。

 いつもこうして途方に暮れて、行きたいところもないのに街へ出るのだ。


 そうして、今日も暗くなった街へ繰り出す。

 何度目かわからない、まん延防止等重点措置が発令されたのに加えて、今日が月曜日だったのもあったのか街は閑散としていた。この街に来てもう2年ほどになるのだけれど、いまだにお気に入りの散歩コースが見つかっていない。どういう道順を辿っても通りたくない道がある。その道に入った途端につまらなくなる道がある。こういう理由があって、歩きに出かけたくても心にブレーキがかかる。とても歩きたいのだけれど、歩きたい道がない。


 行くあてはないのでとりあえず、口座引き落としの登録がうまくいかなくてコンビニ支払いを求められたガス代の請求書を外国人の店員さんに渡す。無事に支払いを終えると、閑散とした飲食店と仕事帰りの人たちをよそ目に、僕は自由という名の世界の果てに繰り出した。

 はずだった。


 何かおもしろいことがあるのではないかと思ってきらびやかな方へと、夏の虫のように吸い寄せられていったのだけれど、そこにはもう何もなかった。派手な電飾など一つもない地下鉄の終点が最寄りの町で育った僕には、この街は大都会だった。越してきてしばらくはミーハー心が踊り、連日、都会の空気を吸いに出かけた。当時と建物は何も変わらないし、派手な電飾も人が少ないからこそ、より一層派手に見える。しかし、そこには何もなかった。

Photo by まひる
Photo by まひる

 幸運を祈るカキツバタをモチーフにした電飾が悲しげに光る。誰が、誰に幸運を祈っているのだろう。僕は誰に幸運が訪れてほしいと願うことができるのだろう。僕は誰に願われているのだろう。誰にも願われていないということ以上に、願う人が誰もいないという事実は何重にも着込んだ服を通り抜けて心を締め付ける。

 電光掲示板ときらびやかなネオンとブランドショップと百貨店が立ち並ぶ交差点で、「ああ、ここには楽しいことは何ひとつないのだ」と絶望した。行きたいところも、会いたい人も、食べたいものも、飲みたいものもない僕の居場所はこの街のどこにもなかった。

 僕がこの街に絶望した瞬間に、この街も僕に絶望したに違いない。僕がこの街に必要なものなどないように、この街にとって僕も必要ないのだ。そう思った途端に、電光掲示板も、ネオンもブランドショップも百貨店も歪んで見えた。人の欲望が表出した塊に見下ろされている気分になった。歩いても歩いても、どこを見渡しても、欲望の塊から逃れることができなくて、開いたことのない心の扉から悲しさが溢れ出す。


 僕は全然わからないなりにも建築を勉強している身として、こんなふうにして苦労して作った結果が欲望の塊であることに吐き気さえ催した。人間の醜い欲望(僕は欲望は全て醜いと思っているし、楽しいとか嬉しいとかいったポジティブな感情も恥ずかしいと思っている。そう思いたくはないけれど、思ってしまう。)を、人間が勝手に切り分けて売買した土地に、さらにアスファルトで塗り固めた地面に焼き付けるかのように刻む。結果として、醜い人間の欲望を形にして汚物のごとく烙印のように焼き付けることになるのなら、僕が建築でできることは何が残されているのだろうか。剥き出しの欲望に囲まれて弱りきった僕は、早く、この場所から抜け出したいと思いながらも足取りは重い。

 トラックの荷台が直視するには眩しすぎるくらいの光を放っている交差点で、前も左も信号は赤。見上げた正面のビルにかかった豚の看板にめまいがした。気づいたら視界が歪んでいて、目には涙が浮かんでいた。左手の信号が青になると、僕はそちらに足を向けて、醜悪な欲望と絶望で構築された世界を踏みしめる。


 これは一時の若気の至りによる無邪気な世界への絶望であってほしい。街を、建物を、人を、欲望を満たす場所にしてはいけないのだ。そう思いながら、自販機に100円を入れて大好きな500ml缶のカルピスソーダを買う。


世界に自由を手に入れる。


 それを飲みながら、とても小さくて純粋で醜い欲望と共に、この文章を書くことが、いま手にできる唯一の安らぎだった。初めて居酒屋に飲みにいった夜。居酒屋街の無邪気な欲望に圧倒された夜。「ああ、ここには楽しみは存在しない」と実感した夜。本当に楽しいことなんてこの世界にはないのではないかと絶望した夜。



 思想もモノも場所も人も居場所と言えるものは何一つ見つけられていないけれど、たった100円の冷たいカルピスソーダは欲望さえも優しく包み込んでくれる。

それを飲みながら、とても小さくて純粋で醜い欲望と共に、この文章を書くことが、いま手にできる唯一の安らぎだった。


Photo bt まひる

(おわり)

※本稿は2022年1月24日に書いた文章を加筆編集したものです


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