#05 多様性ってなんだ

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第5回は、あらゆる作品やメディアから聞こえてくる”多様性”について漠然としたもやもやを感じていたので言語化に試みます。



 映画やドラマ、音楽をはじめとするカルチャーは実社会と切っても切り離すことができないということがはっきりとわかってきた。しかし、社会問題に対してシャープな切り口で挑んだ作品に触れても、純粋に”すごい”と思えなかったり、興奮しなかったりする。そのような自身の無教養さには毎日辟易する。

 作品を見て、作品にについて調べて、聞いて、と繰り返すうちにあらゆる作品は膨大な文化的バックグラウンドの上に立脚していることがわかってきた。とても恥ずかしいのだけど、今まで自分にとってほとんどの作品は点として存在していて、文化的バックグラウンドや文脈を考えたことがなかった。それゆえに高校生の時に書いた文化祭用の脚本の稚拙さがより恥ずかしさを増して殴りかかってくる。あの作品はなんの文化的背景にも立脚しておらず、舞台設定もキャラクターの設定も音楽の使い方も、衣装に至るまで全てを雰囲気で決めていったため、結果的に”自分は無教養です!”と高らかに宣言する作品を作ってしまった事になる。そんな作品をクラスのものとして提出してしまったことは大変恥ずかしく、そして申し訳なく思っている。というのは、『カルテット』というマスターピースを見て確信に変わったのだけど、同時に『カルテット』を見たからこそ、やり直せないこの事実を受け入れることができる。



 さて、最近では多様性という言葉がよくみられるようになった。それはジェンダーや人種で扱われることが多く,「君の名前で僕を呼んで」「キャプテン・マーベル」,「ブラックパンサー」,「スキャンダル」,「マスター・オブ・ゼロ」では主題として描かれ、「梨泰院クラス」「逃げるは恥だが役に立つ」「ブックスマート」「ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから」,etc…では当たり前の要素として描かれている。これらの作品は真正面から出自やジェンダーなどと向き合っているのだけれど、それを説教がましくなくエンタメの中に見事に落とし込んでいる。

参考資料




 最近はこの”多様性”に関してもやもやしている。もやもやしたきっかけは2021年1月クールに放送された『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』だ。このドラマを見た時に、言葉で表すのは難しいのだが、旧時代的な雰囲気を感じざるを得なかった。しかし、あまりにも吹っ切れたその作品に、1話の段階で「最近はジェンダーをはじめとする多様性がよく取り上げられているけど、これまでの価値観もアリでしょ?今までの全てを否定するのではなくて、今までの価値観も多様性の中の一つなんだ」というメタ構造をとっているのだろうと勝手に納得した。



作中でも

ある時代を生き抜き、大衆に深く記憶された作家だけが『時代遅れ』になることができるんです。

作家が本当の意味で時代遅れかどうかは、今、ちゃんと生きのいい新作が書けるかどうかだけだと僕は思います。

という脚本家自身を意識したセリフがあった。
脚本の北川悦吏子は『ロングバケーション』、『半分、青い』などの人気ドラマを書き、「恋愛ドラマの女王」と呼ばれた。

 このドラマの良し悪しの判断は評論家に譲るとして、このドラマによって「多様性ってなんだろう」という問題が提起された。


 新たな価値観に触れていなければダメなの?触れていない作品は時代遅れで淘汰されていくべきなの?差別を助長する作品ではなく、ある特定の(旧時代的な)価値観を描くことはもう許されないの?そのようなものを淘汰していくことが多様性なの?淘汰するのに多様なの?とりあえずいろんな価値観に目配せしておけばいいの?etc…と考え出してしまって止まらない。

参考資料

 これは自己批判を含めて書くが、「あまりに目配せがすぎる作品は疲れる」のだ。
 そこで、思い出されるのが『
逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』だ。


 『逃げ恥』再放送から立て続けに見たこの新春スペシャルは、待ち望んだキャラクターたちの”その後”を楽しく観賞しながらも、あまりに膨大に押し寄せてくる問題提起に少々面くらった。
同時に、疲れる自分は差別加害者予備軍なのかという葛藤が生まれる。

 いくら多様性と言っても、これはいささか乱暴すぎないかと。いくら「今の文脈をちゃんと取り入れた作品づくりを」と言っても乱暴すぎないかと。みんな受け入れられたの?受け止め切れたの?なんで手放しに賞賛できるの?面食らった自分は差別加害者予備軍なの?もうみんなは次のフェーズに進んでいるの?自分だけ取り残されているの?ちょっと待ってよ…

と半分パニック状態に陥った自分に安心する一言が目に飛びこんでくる。


「多様性」とか「ダイバーシティ」とか言われているけれど、あれは「差別しちゃいけません」ということをみんなが共有しているだけで、多様なものを認めているわけじゃないんですよね。(オードリー・若林正恭)(文學界 「國分功一郎×若林正恭 真犯人を捜して生きている 新自由主義に多様性、格差社会の正体とは? 今を生きるための対話」より)


 そうだよな。まだみんなもがいてるんだよな。状況を的確に表現してくれたオードリー・若林の言葉に安心した。そして、みんなが「受け入れられていない」ことに安心してしまっている自分に気がついてまた自己嫌悪の渦に巻き込まれてゆくのである。(しかし、作品の良さは、「何を絵描くか」ではなく「どう描くか」に現れるのではないかとも思う。)


 何にどう感じていけば良いのか。多様性ってなんだ。と、もう何もわからなくなってしまって右にも左にも進めなくなってしまっている時に出会ったのが「正欲/朝井リョウ」「スター/朝井リョウ」の二冊である。



 これまでは朝井リョウの本を読んだことはなく、映画化された『桐島、部活やめるってよ』『何者』をみた程度だった。前者は中学生当時の自分には難解で、「朝井リョウ=難解」というイメージが定着してしまった。それゆえに、なかなか本を読むには至らなかったのである。
今回の新作もそこまで気に留めていなかった。キャッチコピーを見るまでは。


自分が想像できる”多様性”だけを礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな―





 『正欲』では「想像の及ばないところに存在する人間がいる」「”多様性”という言葉はいつだって受け入れる側の言葉」というのが強く描き出されていて、『スター』では要素の一つとして「多様性に目配せしておいたら良い作品なの?」という疑問に触れており、そのどちらもが強烈にもやもやを刺激する。この二冊を読んで救われたなんて思いもしないけど、自分のもやもやとスタンスを明確にしてくれた。だからこうして文字にすることができた。
 「想像の及ばないところに存在する人間がいる」というのは『マスター・オブ・ゼロ』にも通ずるところがある。

「明確に分かった」というラベリングからまた思考停止が始まるのだけど。。

『正欲』『スター』について

(おわり)


※2021年4月1日に書いた文章を加筆編集したものです。

参考資料

真昼の深夜(まひる)

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