#12 「こころのよりどころ」の代替可能性

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第12回は、苦しかった時に助けられたものについて振り返っていたら「こころのよりどころ」ってこれじゃなきゃいけなかったのか?という疑問を抱いたことについてです。以降、重要なテーマの一つになります。


部屋に累積する意味のない熱狂も
素手で掴みとって強く抱きしめるよ
タイミングさ この世界は
苦悩も悲哀も作れるのさ
フェイクでも心が動いたら
愛してあげて それくらいは
君が恥じることはないさ
悪いのは力を持った奴だ
『終わりのステップ / Mom』


 コロナ禍で「こころのよりどころ」になったなぁと思うものがたくさんある。これがなかったらここまで生きて来られなかったと。それと同時にこうも思うのである。「本当に『これ』がなかったら生きてこられなかったのだろうか?」と。

  つまり、「こころのよりどころ」となったものは代替可能か?ということである。それは、ものだけでなく人に対しても同じことが言える。「自分にとってとても大切なもの」が代替可能だとしたら自分が選択してきたこの人生は一体どう意味づけられるのだろうか。


 これは「あったかもしれない未来」について考えることと等しい。ここには、たくさんの可能性の中からこの道を選んだにすぎないという冷眼傍観と、たくさんの可能性から運命的にこの道を歩んだというロマンチックな視点が共存している。しかし、自分はどうも後者では見られそうにない。

 たくさんの可能性の中からこの道を選んだにすぎないという冷眼傍観は自由意志と決定論を引き連れてくる。現在は、この人生が自由意志であっても決定論であってもどっちでも良いやというのが自分のスタンスである。これは考えたって答えが出ないし、どちらかに決めてしまうこと自体にあまり意味を見出せないので、時々、状況によって都合の良いように解釈すれば良いと思っている。


 やはり、自分は「こころのよりどころ」は代替可能だったと思っている。しかし、先ほどのスタンスに基づくと、「こころのよりどころ」が代替可能であったとしても、そうでなかったとしてもどっちでも良いのだ。

 では、自分のすべきことは何か。
 
それは、代替可能かもしれない「こころのよりどころ」を丁寧に自分の文脈の中に落とし込み、代替可能性以上の価値と意味をそこに付与していくことなのかもしれない。





離れたまま
僕らはいろんな構図で
離れたまま
心描き合うけど
めんどくさいから
直接渡すよ
[Alexandros]『rooftop』

(おわり)

※この記事は2021年9月8日に書いた文章を加筆編集したものです。

参考資料

真昼の深夜(まひる)

Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。


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