#03 『花束みたいな恋をした』を引き受けて

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第3回は、映画『花束みたいな恋をした』を見て、2021年で一番の衝撃を受けたため、なんとかその正体を探るために、言語化を試みます。




『花束みたいな恋をした』
脚本:坂本裕二,監督:土井裕泰
主演:菅田将暉・有村架純
をみて感じたことを書きました。映画観賞後の評論,考察,物語に対して感想を述べることは得意ではないので、今回はこの作品をめぐる自分の文脈で、今見ても赤面しそうな拙文で感じたことをつらつらと書いています。



ファーストサマーウイカのオールナイトニッポン0(ZERO) (毎週 月曜日 27:00〜28:30)』にて「インスタ ロング ロング」と勝手に命名された土屋太鳳よろしく、今回も懲りずに長文を書く。なんとういか、どうしようもなく寄り道をしながら書きたい気分なので、こうして蛇足を繰り返す。そもそも、自分の書いた文章なんて誰も読んでくれる人などいないのに、この文章を書く動機は何だろうか。

 かつて「自己顕示欲の大暴走」と自虐した二人組に共感しながらも、今となっては彼らは、日中はスターに、深夜は地元のつれ にと活躍する姿によって如実に示される自分との距離に愕然とし、より一層、この文章を書く意味を省察するのである。まだまだ足元を見ている自分に対し、彼らはすでに「かつて天才だった俺たちへ」と歌ってしまえるほどに、自己認識と自己肯定を手に入れているように見える。


 さて、『花束みたいな恋をした』を見るきっかけになったのは、一週間の一番の楽しみと言っても過言ではない『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) (毎週 水曜日 27:00〜28:30)』のパーソナリティである佐久間宣行氏(以下、佐久間さん)の紹介である。佐久間さんが言うなら見てみたいなぁと思っていた矢先、今年に入ってから楽しく聞いている『POP LIFE : The Podast(Spotify)』(これまた、佐久間さんきっかけで知った。)にて、3エピソード約3時間にわたって『花束みたいな恋をした』を含みながら、脚本家 坂本裕二について話していたのである。


というわけで劇場に足を運んだ。


 また、佐久間さんはパンフレットに関して「映画に負けないくらいとんでもなく素晴らしいパンフレットです。それもぜひ!」とツイートしていたので購入してみると、ちゃっかりパンフレット内で佐久間さんが対談しているじゃないか。

Photo by まひる

 あのおじさんに乗せられたと思いながら例のツイートを見返してみると、しっかりと自身の対談について明記されていた。


 ここまで書くだけでも、オールナイトニッポンがいかに自分の生活に浸透しているかが窺える。たくさんの楽しい時間と素敵な出会いを提供してくれる一方で、いいお客さんだなと自虐する自分もどこかにいる。




 この映画はきっと何度か見返さなければならない作品なのだが、上映開始直後から終わりまで、自分の心を容赦無く滅多刺しにしてくるのでなかなかその気にはなれない。

 劇場が暗くなると、これから描かれるであろう5年間を経たのちの二人がまずスクリーンに映し出される。どこかで聞いたようなイヤホンを分け合うカップルへの文句に、この作品で受け止めなければならない「自分と似たような人種」の姿が瑞々しく表出していた。

 「音楽ってね、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違う。Lでギターが鳴ってる時、Rはドラムだけ聞こえてる。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ。」
「同じ曲聴いてるつもりだけで、違うの、彼女と彼は今違う音楽を聴いてるの。」

 という二人の台詞の根底にある”同じであること”は、そのままこの作品のモチーフになっていった。


同じものが好き。


 それぞれの好きなものが、ややマニアックなものであることから、「同じものが好き」ということがお互いを求める強烈な理由になっていく。自分も大抵の趣味は一人で楽しんでいるから、話が通じる喜びには共感ができる。

 ただ、互いに好きなものを綿連と確認し合うことで、二人が”同じであること”に喜びを感じていく姿には赤面せざるを得なかった。

 理由は二つある。
 一つは、全くもって共感できるから。共感できるからこそ、自分を丸裸にされたような恥ずかしさがある。もう一つは、好きなものの羅列で自分を規定していく二人と鑑賞時に抱いていた自身の不安定さが100%合致したからである。後者は鑑賞中、観賞後、そして今に至るまで非常に関心があるテーマとして自分の心に残っている。


 自分を他人に説明するにはどんな情報を並べれば良いのだろうか。名前、出身地、趣味、etc…。自分にとってそのどれもが自分と同一のものではなく、外堀を埋める情報としか思えない。なんなら身体としての自分と心の自分の二つが存在していて、それは時には同一化し、時には全くの別物に思えることもある。好きなものを追求した先に”自分”があると思い込んでいた数年前までの自分と、好きなものは所詮外堀でしかないのではないか、とその不安定さに恐怖さえ覚える今の自分。その漠然とした不安定さをはっきりと「不安定だよ」と突きつけてきたのが『花束みたいな恋をした』なのである。この先に答えがあると思っていたのにそれを失った時は、海にたどり着いたエレン(『進撃の巨人』)の気持ちを少しばかり理解できたかもしれない。


 好きなものを羅列することで”同じである”ことを確認できるということは、好きなものを羅列するだけでは”同じ”人がたくさん存在するということでもある。その事実は、好きなものでアイデンティティを確立することをギリギリ諦めていなかった僕から、見事にアイデンティティを奪い去った。

 ゆえに、この映画を見終わった時には この世から自分がいなくなった、心からそう感じた。

 このようにしてアイデンティティを奪い去られてしまったので、それ以降は専ら「アイデンティティとは何か」といういかにも大学生らしいことを考えている。


 2時間のサンドバック体験をしたものだから、二人の恋愛模様に感情移入する暇などなく、それはさながら、リングで灰になる『あしたのジョー』の有名なシーンのようだった。最も興味のある二人の”カルチャーとの付き合い方”についてしっかり見ることができなかったので、何度か見返さないといけないなと感じている。


 アイデンティティとは何か。
 外堀で固めることなく自分を説明する・規定するものは何か。
 答えの出ない問いをこうして文字にするのはただの「自己顕示欲の大暴走」なのか。


 こんな風にして懲りずに書くのは、「この映画が好きで、この小説が好きで、この音楽が好きで、etc…という言葉で自分を規定することの不安定さは、その作品が好きな理由を「どんな状況でどんな精神状態で作品と接触して何を感じたか」という明確な文脈の把握と言語化によって解消されるのではないか」と心のどこかで思っているからだろう。


 そんな究極のパーソナルな文脈など誰も興味がないし、それをネットにアップする気持ち悪さに最も苦い顔をしているのは自分自身なのだが、こうしてアップするのはどうしても自分の外に出してしまわないと気が済まないからだろう。(この行為自体と向き合い続けなければならない。)


 アイデンティティとは何か。という強烈な問いに対する回答は未だ見つけられないけれど、このようにして、一瞬一瞬の感情と文脈と変化を現在地のアーカイブとして残すことで一つの答えに辿り着けるのではないかと漠然と感じている。

 もしくは、何かを書くことで、自分の外だけではなく、自分の中から出てきたものにすがろうとしているのかもしれない

 花束みたいな、現在地の鮮烈なパッケージ化を目指して、「自己顕示欲の大暴走」と向き合い続けなければならない。


(おわり)

※2021年3月31日に書いたものを加筆編集した文章です。


参考資料

真昼の深夜(まひる)

Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。

Copyright © 2022 真昼の深夜 All Rights Reserved.