#17 2021年は「孤独」と「アイデンティティ」の年だった

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第17回は、2021年に書いてきたものを振り返る総集編です。Podcastやこれまでの記事をまとめています。


 2021年は自分にとって大きな変化がいくつもあり、残しておきたい一年となった。今年は、何か考えがまとまるたびに文章にしてきた。

 ここで改めて、2021年に書いた文章を振り返ることで、今年の一年の思考の流れを振り返ってみたい。


目次


Podcastを始めた



 2021年はずっと寂しい一年だった。2021年初頭、大学生として初めての冬を迎えていたのだけれど、コロナ禍に直撃してしまった上に一人暮らしをしていたので、1,2週間に一度人に会う程度の生活を送っていた。会うと言っても会話はほとんどない。そんな、「人と話したい」というフラストレーションが限界に達した。


 そして、始めた。



 ここからは、関連のあるPodcastも一緒に載せていこうと思う。

 コミュニケーションを取るためのプラットフォームづくりをしつつも、大学に入学してからほぼ一年、自分の中にずっともやもやしたものがあった。


『POP LIFE: The Podcast』



 このもやもやはアイデンティティの不安定さに起因しているものなんだとわかる。そして、その不安定さを埋めるために自分はエンタメに身を預けるようになる。

 『釈然としない』の後半で書いているが、今年の重要な出会いとして外すことができないのが、『POP LIFE:The Podcast』である。


 それは、アイデンティティの不安定さを乗り越えていくヒントを与えてくれるものでも、興味の幅を広げてくれるものでもあり、自分史というものがあるなら『POP LIFE』以前以後が確かに存在する。今年はこの番組との出会いによって動き出した今年の重大事件は三つあった。『 POP LIFE:The Podcast 』、『 花束みたいな恋をした 』、「 宇野常寛さんとの出会い 」である。

そして、圧倒的なのめり込み具合で聞いていくことで、無意識ながらも自分に変化が出てくる。


『花束みたいな恋をした』

 この辺りで、2021年、2つ目の重大事件が起こる。『花束みたいな恋をした』を見たのだ。



 『#01 釈然としない。』でぎりぎり手にしたラジオを聴くことで得られたアイデンティティは、この映画によって見事に打ち砕かれる。そして、ここからは、「何が好きか」ではなく、「どう好きか」にアイデンティティを求めるべきなのではないかという直感を頼りにするのだ。


 『花束みたいな恋をした』で坂本裕二作品に興味を惹かれた。

#04 不可逆なチャプター (『カルテット』)


 人生、ある程度のところまでやってきた時に、「この人生でよかったのだろうか」と悩んでしまったらどうしよう。やり直すことができない今の人生をどう肯定したら良いんだろう。『カルテット』は、『大豆田とわ子と三人の元夫』は、『明日のたりないふたり』は、そのようなものを扱ったものだった。


 『POP LIFE:The Podcast』を聞くようになったことでさまざまなカルチャーに触れるようになっていくが、今年は例年よりドラマを見た年だった。『WE ARE WHO WE ARE / 僕らのままで』、『地獄が読んでいる』、『メイドの手帖』、『セックス・エデュケーション』と、挙げたら止まらない。その中でも記憶に残っているのが『マスター・オブ・ゼロ』だ。

 自分はアジア人であることを自覚したことがなかったが、そのことについて考えるきっかけになったドラマだった。

参考資料

孤独とメンタルヘルス



 タイトルにもあるとおり、今年は、孤独とアイデンティティがテーマの年だった。

 Podcast番組を始めることで、多少の孤独は解消されたが、会える距離の友達が増えるわけではなかった。同時に、大学の課題によって精神的に追い込まれてゆくことになる。


 『コロナ禍はメンタルヘルスケアの絶好の実験期間だ』で、あらゆることを内面化することによって、精神バランスを崩していることに気がついた。そして、もう少し、社会的なものや環境、状況を内面化せずに、メンタルだけは穏やかに生きていこうと思ったのだった。しかし、そう簡単には楽にならない。大学がつらい原因は孤独だけではなく、他人と比較してしまうからだった。そして、その根底には完璧主義があったのだ。そして、ずっと悩まされてきた完璧主義にさしあたりの決着をつけた。


 夏休み直前にオリンピックを迎え、オリンピックとどう向き合ったら良いかわからなくて、精神的にも不安定だった。自分達はこの時代をリアルタイムで生きるものとして、オリンピックについて何かしら語ることができないといけないと思うのだ。

オリンピックについて

 しかし、当時も今も、まだそれはできない。終わってしまった今も、2021年のオリンピックは一体何だったのかということを考えている。

そして、当時の不安定な精神状態を支えてくれたのがMomの『終わりのカリカチュア』というアルバムだった。

Momについて

 ひどくひどく落ち込んだ大学2年の前期を終え、夏休みに突入した。一切のしがらみから解放されて、映画鑑賞と調べ物と読書と散歩に耽った。そんな中で、勉強することの実感をやっと掴んだような気がした。


 10月、そう後期の開始が近づくにつれ、そろそろ今年を振り返っておきたい。いや、コロナ禍以降のことを振り返っておきたいと思うようになった。そこで真っ先に思い浮かんだのは、コロナ禍はいろんなものに助けられたということである。たくさんの孤独の夜を超え、なんとか生き延びることだけはできた。つらく、冷たく、長い夜は決まって[Alexandros]の『Bedroom Joule』を聴いた。


 また、自分は曲順にこだわってプレイリストを作るのが好きなので、自分で作ったプレイリストをひたすら聴いていた。


 チルでエモい曲が多いことから、この当時のメンタリティがわかる。こういうこともあって、エモいって一体どういう感情なんだろうか とずっと考えていた。(そして、のちに「エモは快楽の消費だ」という結論を導くことになる。)


 コロナ禍に、たくさん救われたものがあるなと振り返って、あれもこれもこころのよりどころになったなぁ、これがなかったらここまで生きてこられなかったなぁと感慨に耽っていた。


 いや、待てよ?これがなかったら本当に生きてこられなかったのか?

 何か別のものをこころのよりどころにしていたのではないか?

 だとしたら、「たまたまそこにあった」以上の理由のない「こころのよりどころ」とどう向き合ったら良いのだろうか。。。


 考えれば考えるほど、物や人との出会いに必然性など見出せない。ならば、必然性を求めることはもうやめて、出会ってからのことを考えよう。この時は直感的にそう思った。これは、最終的に、『花束みたいな恋をした』で感じたアイデンティティの不安定さを乗り越えるためのメインの理論になってゆくのだが、それはもう少し先のお話。


 夏休みの終わりに、2021年にそれまで書いた文章を一つの冊子のようにしてまとめる試みをしていた。そして、あとがきとして、「自分はずっと文章を書いているけれど、これは一体何をしているのだろう」ということについて書いた。

 夏休みも明けて、後期が始まってからも、大学が始まったことによる孤独と、孤独の中で向き合わなければいけない講義と課題に心を乱した。


 しかし、今年はあの手この手を使って、少しでも(精神的に)楽に日常生活を送る術を模索してきたではないか。そして、わずかながらそれを実現してきたではないか。どうしてまた、つらくなってしまうのだ。どうしたら楽にできるのだ。と考えていたら、あることに気がついた。


 自分は「生きがい」や「気晴らし」、「つまずいた時の解決策」、「こころのよりどころ」など、それぞれに最適解を見つけ出そうとしていた。そもそもそれが間違いなのではないか?


 何にでも最適解を探し求めていた私は例外なくアイデンティティにも最適解を求めていたのだ。

その最適解はどうしても見つからなかったし、むしろ、ものや人との出会いに必然性を見出せないことに気がついてからは、見失っていく一方だった。


アイデンティティの問題



 そして、ここから、『花束みたいな恋をした』で提起された「アイデンティティの不安定さ」をどうやって乗り越えるかという今年最大の問いにアプローチすることになる。


そして、

アイデンティティに必然性がないことに不安定さを感じ悩んできたが、必然性など求めても絶対に掴めない、存在しないのだと突きつけられた。必然性がないのであれば、無根拠なアイデンティティに、必然性のない不安定さをも上回る愛着を持つことで、そこに自分だけの文脈を形作って行けば良いのだ。

という結論を得た。


 アイデンティティとは、どんな記号を選ぶかではなく、選び取った記号にどう愛着を持つかなんだ。

アイデンティティの問題が解決したのが12/25の明朝。(クリスマスに何やってんだ。)


 そこから、この理論の延長にいくつか発見があった。

 例えば、完璧主義についてである。自分は完璧主義に悩まされていた。完璧主義は、劣等感とセットだ。今までは、劣等感(=完璧主義)を乗り越えるには、成功するしかないという自己啓発的な解決策しかないと思っていた。そこで、『完璧主義を乗り越えるのはエンパシー』では、劣等感は「優越感を抱きたいという感情」から生まれるというのを出発点に、優越感は社会の中にいることで生まれるのだから、社会から距離を取ることで完璧主義を乗り越えるのだ、という結論を得た。

しかし、『アイデンティティの不安定さをめぐって-『花束みたいな恋をした』から『暇と退屈の倫理学』へ-』で『暇と退屈の倫理学』を踏まえた自分は、劣等感(完璧主義)を乗り越える方法として別解を得た。


それは、

成功してる人への劣等感って、成功してない自分がつらくて成功したいのではなくて、そのような人は何か「自分の生きがいと人生の意味のようなもの」を手にしているように”見える”からなんだ。重要なのは成功することではなくて、人生に意味付けできるかだ。全ての劣等感は「人生の意味」の欠落に起因するのではないか?

ということである。


 そして、その「人生の意味」は「運命的な何か」ではなく、「究極的には無根拠に選んだ生きがい」への意味づけなのだ。


 無根拠で囲まれた決断主義的な生き方を受け入れることで、運命的な何かに出会わなければいけないという切迫感から解放され、そして、緩やかに「自分はこれまでを、そしてこれからをどう意味付けするのだろうか」と楽しみになってくる。


 現状を変えることで問題を乗り越えるのが自己啓発なら、現状は変わらないかもしれないけど現状を読み替えることで問題を乗り越えるのが哲学だと思う。そして、後者を支持したい。


 今年は、ターニングポイントになる年だったのでこういう形で残せてよかったです。来年もどんなことを考えるのか楽しみです。

(おわり)

参考資料

真昼の深夜(まひる)

Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。


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