#08 コロナ禍はメンタルヘルスケアの絶好の実験期間だ

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第8回は、2021年の中頃、メンタル的に落ち込んだときにその原因を省察しました。センシティブな内容かもしれないので、心配な方はお控えください。


目次

こうして落ち込む



俺が病んでるって?そう 俺は病んでる
誰にも負けないFlowとRhyme 口ずさんでる
(USU,DJ TAGA / GHOST)



 コロナ禍はメンタルヘルスケアの絶好の実験期間だ

と思うことで何とか生きていられる毎日。


 朝起きてから寝るまでメンタルのことしか考えない生活を送っている。

 そのような経験がない人からしたら病んでるという状態なのかもしれないが、自分にとってはこれが常。病んでるなら病んでるでもいいのだが、怪我や病に対しては「お大事に」と声をかけるのに、「病んでる」人に対しては嘲笑が浴びせられるのは解せない。例えば「メンヘラ」という言葉で心の元気がない人にダメージを与えている人は、ナイフで人を切り刻んでいるのと同じことをしているのに気がついているのだろうか。

 というのは置いておいて、今まで価値観の変遷の文脈を整理する試みを幾度として来たけど、自分のメンタルの変遷を言語化しようとする試みはあまりしてこなかったと気がついたのでやってみる。結局は価値観の話に返ってくることになったのだが。



 現在は、週の半分は元気がなくて倒れていて、もう半分で遅れた分を取り返すというギリギリの生活を送っている。

 例えるならば生きているだけの肉塊。昨日も家を出たけれど、横断歩道の前で体が動かなくなって結局大学に行くこともできなかった。

 「しんどい」のではなく「元気がない」状態であり、原因は一重に「孤独」だろうと思う。リアルでは実験やバイトで形式的な会話をすることはあるけれど、身のある会話をすることは一切ない。そういう意味では唯一の会話相手は電話で話す母親だけだ。人と会話する機会はゼロに等しい。



 メンタルが落ち込んでゆくと日々できることが少なくなってゆく。

①一番調子が良い時は大学の講義・課題に加えて、図書館に足を運んだり、その他のことまで手が回る。
②次に、大学の講義と課題だけはなんとかついていけるという状態になる。
③次に、大学の講義と課題が溜まってゆくという状態になる。まだなんとか気晴らしできる。
④次に、考える作業や学ぶ作業ができなくなり、家にいることもできなくなって、ひたすら散歩するしかなくなる。映像の気晴らしは通用しなくなるが音声は通用したりしなかったり。
⑤次に、部屋の掃除・洗濯・食事・睡眠などの日常生活が難しくなる。音声の気晴らしも通用しなくなる。
⑥次に、起き上がることができなくなって、何も感じなくなる。

といった感じだ。


 何度も⑥まで経験したし、ちゃんとこの段階を踏んで倒れてゆくこともわかった。現在は日によっては⑥まで行くけれど、トータルで見てみると①〜③をゆらゆらしているところだ。

 ⑥まで経験するといくつかわかることがある。一つは①〜⑥のような段階があること。もう一つは、生に執着しない感覚だ。高校生の頃から、幾度とメンタル的にキツくなることはあった。何度も起き上がることができなくなってきた。しかし、どこまで行っても死という言葉がよぎることはなかった。そこには生への執着があった。ただ、コロナ禍のメンタルの落ち込み方はそれさえも超えてゆく。⑥の状態に行き着くと感情がなくなる。とはいえ、もちろん能動的に死を考えることなんてない。しかし、驚いたことに⑥に陥った時初めて、生への執着がなくなった瞬間があったのだ。もちろん、死を持ってこの生活を終わらせたいなど考えたことはない。つまり、生への執着がなくなった瞬間というのは決して能動的な死を考えたのではなく、水を飲むのと同じくらい当たり前にベランダを越えてしまえそうな瞬間があるということだ。
 そこに躊躇がない。
 嫌だと思わない。
 何も思わない。


 死にたいとは思わないけど、生きていたいとも思わない。

 ただ、この感覚にゾッとするのはまだギリギリ正気でいられる証拠だろう。だから、できるだけベランダの端には行かないようにしている。いつ魔がさすかわからないので。毎日ベランダで風に当たっているけれど、しっかりと意志を持って踏ん張っている。

 あんまりこの段階にまで行きたくないので、「なんとかもう少し元気な状態でゆらゆらしていたい」と思えるようになったのもいいことかもしれない。沼の底を見てしまったら、沼に沈んでゆくことも防ごうと思える。沼の底を見るまでは無闇に潜ってしまっていた。それゆえに毎日、「生き抜いている」という感覚がある。なんとなく生きていられたら楽なんだろうけど、なんとなく生きていけないからこうなっている。必死に1日1日をサバイブしている。

 必死に生きてやっと、ただ起きて、生活して、寝るという必要最低限の生活が送れる。
このコロナ禍を生き抜いたら、自分で自分に・みんなに拍手を送りたいとすら思う。



俺が病んでるって?
もう 雨は止んでる
誰にも負けないFlowとRhyme 口ずさんでる
(USU,DJ TAGA / GHOST)


なぜメンタルが落ち込むのだろう



もう一度起き上がるにはやっぱり
どうしたって少しは無理しなきゃいけないな
一人じゃないとつ呟いてみても 感じる痛みは一人のもの
(BUMP OF CHICKEN「Flare」)


 元気がなくなる原因となっているのは「孤独」の解決策が思い浮かばないことにある。
 特定の会いたい人がいるわけではない。特定のやりたいことがあるわけではない。つまり、
「〇〇ができていないから元気がない」というのが明確にない。これはそのまま、希望がないと言い換えられる。目指すべき目標がないので手の打ちようがなく立ち尽くしているという状態だ。


 でも待て。ミヒャエル・エンデは「希望とは、物事がそうであるから持つものではなく、物事がそうであるにもかかわらず、持つ精神なのです。」と言ったじゃないか。そもそも自分が「希望」というものを追い求めるのがよくないのではないか?それはどこかに存在しているのではなくて、自分の中に持つから生まれるものなんだ。とはいえ、この場合における「持つ精神」としての「希望」って一体なんだ?「いつかこの孤独が解消される」という希望?いつかなんとかなるなんてそんなことはわかっている。こんなものは希望にならない。いつかじゃなく今ギリギリなんだ。特効薬をくれ。


 特効薬はいまだに見つからない。だけど、なんとか自分で自分を首の皮一枚繋ぎ止める最後の考え方がある。

 「コロナ禍はメンタルヘルスケアの絶好の実験期間だ」

 こんなに独りで追い込まれる状況はきっと一生ないので、いろんな実験・分析をして、セルフメンタルケアの技術を養っていくには絶好の機会なのだ。さて、最近、メンタルヘルスの問題は価値観や考え方の問題に変換できることがわかって来た。



 面白いことに、こういう経験を通して他人への憎悪が増幅してゆくことはなく、むしろ、他人に優しくなってゆく。どうにか、どうにか、生き抜こう。わかったことの半分も書けていないけど、ゆっくりこの問題に向き合ってその都度、言語化してゆきたい。



自分にしかできないことってなんだろう
終わったって気づかれないような こんな日々を
明日に繋ぐ事だけはせめて 繰り返すだけは繰り返すよ
(BUMP OF CHICKEN「Flare」)


相対化が心を解放してくれる



代わり映えのない かけがえのない
同じだから見えるものもあった 案外シンプルだった
全部自分で難しくしてるだけ
(藤原さくら – 生活)


 2021年4月〜の期間は、2020年10月〜12月とどうやら様子が違う。前者は①〜③でなんとか踏ん張れているものの後者は⑥まで落ち込んだ。
 何が要因なのだろうか。一つは気候があるように感じる。寒いと心も痩せ細っていく。もう一つの要因はPodcastとの出会いにある。

Podcastとメンタルヘルスの関係性についてもう少し考えてゆきたい。


 自分のメンタルの状態を測るのに重要なバロメータは「知的好奇心」である。
 この関係性ははメンタルが落ち込んでいく段階①〜⑥を見てもよくわかる。元気がないときは知的好奇心も皆無だし、知的好奇心が皆無な時は元気がない。つまり、なんとか知的好奇心を保ち続けることができたなら、なんとか元気で居続けられるということである。その点Podcastは適度に知的好奇心を刺激してくれるので、今はなんとか知的好奇心も元気も保つことができているのだろう。


 この知的好奇心とも関連することなのだが、メンタルヘルスの問題は価値観の問題にそのまま変換できるのではないかと最近は考えている。さまざまな小手先のテクニックは後から必要になってくるもので、根本的に解決していこうとするならばやはり価値観の転換が必要になってくる。世界というのは自分のフィルターなしに見ることができない。(そうじゃないことをするのが学問だったりするのかもしれないけど、ここでは日常生活の話。)つまりはフィルターこそが世界なのだ。

 長くなったけれど、2021年4月〜の期間は、2020年10月〜12月の決定的な違いはフィルター=価値観 にある。


変わるものは変わってく
身を任せてユラユラ
夕方の電車はきらい 昔よりもっときらい
みんなもそうだって言うけど 仕方ない 回り始めた世界
(藤原さくら – 生活)



価値観の変化



胸の奥 君がいる場所 ここでしか会えない瞳


 自分史というものがあるのなら、何度か人生の転換点になるところがあるはずだ。
自分で言うなら、陸上との出会い。高校での体調不良。そして、2021年の『
POP LIFE :The Podcast』との出会いだ。自分史の中に、明確に『POP LIFE』以前以後がある。『POP LIFE』を起点として、さまざまなカルチャーや価値観、Podcastに触れることになった。

 価値観が変わることで生きやすくなることをものすごく実感する日々である。
 孤独のつらさに加えてその他のつらさも重なってくるともう取り返しがつかないところまで行ってしまうので、生きやすくできるところは行きやすくしていきたいと思うようになった。これはすなわち、前回の『
おかえりモネ』で書いた 「自分は自分で良い」=「世界の,社会の価値観と自分の価値観を同一化しなくていい」だし、つまりは「メンタルヘルスの問題は社会の歪みを内面化してしまったことによって引き起こされる」ということに自覚的になったということである。


だんだんと「生きづらさ」より「生きやすさ」に注目するようになってきた。


 いくつかの価値観の変化を挙げると、これは建築関係の学科にいることが原因かもしれないけど、大学の勉強をいかに仕事につなげるかだけでなく、「いかに素晴らしい作品を作るか」というところに目が行きがちになってしまう。作品作りに関して自分はどがつくほどの素人なので、そんなことを考えていたら落ち込む一方である。

 そんな中で『#026 その名はオロノ、フラジャイルなニヒリスト? Guest: Orono (Superorganism) / 三原勇希 × 田中宗一郎 POP LIFE: The Podcast』, 『【番外編 #36・37】メンタルケア、どうしてる?(前・後編)【COTEN RADIO】/ 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)』などを通じて、「大学の勉強をいかに仕事につなげるか」「いかに素晴らしい作品を作るか」という観点の重要度が低くなってきた。

参考資料

 自分は猛烈に何かの職業を目指しているわけではないし、ましてや素晴らしい建築家になろうなんぞ考えたこともない。ただ、好きな空間があっただけなのだ。僕は一生こうしていろんなことの文脈整理と言語化ができたらそれだけで楽しく生きていける。あれこれと考えてしまうのは一体何をやっているのだろうかと考えていたのだが、これはきっと「自己の救済」なんだ。

「どれだけ自分を生きやすくできるか」
 それだけ考えていたら自分は一生楽しく生きていける。そんな気がした。

 「自分」「自分」とばかり考えているのは余程のナルシストだなぁと自分でも思っているのだが、確かにそういう面も認める。一方で、単純に自分の生活に他者がいないということもある。つまり、単なる生活スタイルと言うこともあるので、生活の中に他者が入って来た時にまた新たに考えたいことが見つかるはずである。脱線が過ぎたが、上記の通り、自分は「自己の救済」さえできればきっと楽しく生きていけるし、それを中心に生きてゆきたいんだと思う。

 だから、「大学の勉強をいかに仕事につなげるか」「いかに素晴らしい作品を作るか」という点であまり悩む必要もないのである。では、大学の勉強にはどのようにアプローチするか。その答えが最近やっと見えてきた。

 先述の通り自分は漠然とした「好きな空間」がある。実際の空間は数多の具体的な要素の集合体である。しかし、知識のない僕にとってそれは、抽象的な空間でしかないのだ。漠然とした「好きな空間」の「好き」の解像度を上げるために、具体的な要素を学ぶ。こういうアプローチで勉強していけば良いのかと気がついた時、いくらか気が楽になった。何もやることは変わっていないのに、捉え方が変わったのだ。このことによって、「できない自分を認めること」「できるようになったことを認めること」が少しずつできるようになってきた。


 少し大きな心のスパンで、少し大きな時間のスパンで考えることで、あんまり悩まなくても良いことがあるものだと気が付く。自分が苦しんでいる価値観がこの世の真理なのか、それともこの時代の価値観なのか。もし前者だと分かったかいくらか生きるのが楽になる。自分を相対化してくれるものの一つは歴史だし、そういう意味で勉強してみるのも大事だと感じた。
 これもPodcast『歴史を面白く学COTEN RADIO』で言っていたことだし、聴いていて実感したことだ。


思い出すと寂しいけど 思い出せないと寂しいこと



もう少しゆったり生きても良いんじゃないか


振り返れば途切れずに 歪な線を描く足跡


 もう一つのPodcastがメンタルヘルスに有効な点は、自分の生活圏、時間の流れとは全く別の世界で生きている人の話を聞ける点だ。

 心が疲れてくる時、忙しくなっていくる時ほど視野が狭くなるし、自分の生活圏しか見えなくなる。嫌なことで頭がいっぱいになる。だけど、ひとたびPodcastを聴くと、自分の生活圏、時間の流れとは全く別の世界が流れ込んでくる。
 そのことで書いてきたような経緯を踏んで今の自分に至っていることを思い出させてくれるし、今の自分の生活圏がこの世の全てではないと思い出させてくれる。


 ここまで書いて自分はそもそも、『自分』と自分の能力を同一化しようとすることがメンタルヘルスの問題の原因になっているのだと気がついた。
 その上、能力と自分を同一化しようとするのは間違っていると思うし、どれだけ自分の能力を追い込もうと、実のところの『自分』だけはもう少し平和な世界に住まわせてあげたい。
 この一線は守りたいし、そもそも一つの能力は自分の一面でしかないことを忘れずにいたい。


自画自賛で気持ち悪いけれど「実のところの『自分』だけはもう少し平和な世界に住まわせてあげたい。」って我ながらしっくりきた。つまり、マクロな生死観と照らし合わせてミクロの現在地を見るということもできるようになってきたし、もう少しゆったりと生きても良いんじゃないかと思うようになってきた。


もうきっと多分大丈夫

(おわり)

※2021年5月22日に書いた文章を加筆編集したものです。

参考資料

真昼の深夜(まひる)

Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。

Copyright © 2022 真昼の深夜 All Rights Reserved.