#09 「あったかもしれない未来」と増えていく「できなかったこと」をどう乗り越えるか

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第9回は、ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』と、漫才ライブ『明日のたりないふたり』を見て感じた、これから向き合わなければならない問いについて考えます。


目次

1.『大豆田とわ子と三人の元夫』



流れる時に立ち止まったとしても


 この歳になると「できなかったこと」が如実に増えていることに気がつく。それは同時に「あったかもしれない未来」が増えていることでもある。

 今までは「できなかったこと」より「できるかもしれないこと」の方が多い人生だった。今もまだ、この大小関係は変わっていないけれど、確実にその差は小さくなってきている。いつか、この大小関係が逆転する日が来る。最近はそのことばかり考えている。この事実をどう受け止めてゆけば良いのか。全く想像がつかない。結局、諦めしかないのか。結局、妥協しかないのか。結局、敗北しかないのか。

 母親に「『こんな人生送るはずじゃなかったなぁ』と思う瞬間ある?」と、聞いてみたことがある。すると、こう返事が来た。

 「そう思うことはなくなった。」よくよく話を聞いてみると、「あそこが分岐点だったなぁ」とか「ああしてればなぁ」と思うことはたくさんあるけれど、それは今を否定する理由にはならない ということだった。母は母なりの生死観と人生観を持って今の自分を認めることができているようだった。


 「あったかもしれない未来」と増えていく「できなかったこと」をどう乗り越えるか。

 このテーマを乗り越えていくには、自分も自分なりに生死観と人生観を築いてゆかねばならんのだろうなぁと思っているが、まだまだスタートラインに立ったところ。すでに、自分の中では持っている感覚はあるものの、一体それがどういうものなのかは自覚できていない。

 関心ばかりが広がっていく一方だ。最近はあらゆる作品で、このテーマを扱っていることに気がつくようになった。

マスター・オブ・ゼロ』のシーズン3で発せられる「こんな人生送るはずじゃなかった」という一言。僕もこう思う瞬間が来るんだろうか。そう思ったきっかけになった一言だった。

『マスター・オブ・ゼロ』について

 『おかえりモネ』で主人公の父親が娘に抱く勝手な期待は、父親自身が「できなかったこと」を娘に重ねているんじゃないかとさえ思える。『おかえりモネ』は新自由主義を一つのテーマとして扱っているのではないかと考えていたので、「『あったかもしれない未来』と増えていく『できなかったこと』」も新自由主義の問題に還元されるのではないかと思い始めた。



ある本では、新自由主義にこのような説明がついていた。ネガティブな側面しか書いていないようにも思えるけれど。

「個人が夢を描くことが称賛される中で、広がる格差により、それが達成できない現実が生まれる。人々はこの事実に対して、自己啓発や仕事に専念することでなんとか乗り越えようとする。あらゆる状況が個人の努力の問題に還元され、協力より競争が優先され、繋がりを感じられず、孤独を感じざるを得ない。」


 全てが個人の努力の問題に還元されるのがあまりにも辛いのだ。自分はすぐに心の元気がなくなって体も動かなくなるけれど、それでも社会は回っていて、止まっている時間なんてない。病気や怪我のように、心の元気がない時に一旦立ち止まることができる社会は実現可能なんだろうか。なんて、考えたりする。ノンストップで生きていかないといけない毎日。こんな状況で勝手に元気がなくなっても自己責任。結局、やらないのは自分。極論、やらなくてもいい。やらなくてもいいけど、できないことが増えていく。


大豆田とわ子と三人の元夫』に至ってはドラマを通してこのテーマに立ち向かっているようでもある。ただ、『大豆田とわ子と三人の元夫』ではここに「自由意志と決定論」が持ち込まれるのである。しかし、それは作品のテーマというよりかはあくまで個人の考え方といった感じ。そのバランス感覚が良い。「あったかもしれない未来」に囚われることなく、現在の自分を受け入れる。そのために、決定論が有効なんだなぁと実感した。

 母は今の自分を肯定する理由として輪廻転生を持ち出していたけれど、この考え方もある種の決定論なんだと納得ができた。肯定的な理由づけとして決定論は有効だけれど、「じゃあ、自分の人生は自分が歩んできたんじゃなくて、初めっから決まっていたの?」という自由意志の問題をつっこみたくなる。個人的には、決定していようが決定していなかろうがどうでもよくて、都合の良いところだけとって自分で納得できればそれで良いと思っている。だからこそ、母が輪廻転生を理由に今の自分を肯定している姿はとても素敵だと思う。

 では、僕にとって何が理由づけになるか。もう少しで掴めそうなところまで来ている。


心の中に残る後悔が


参考資料

2.『明日のたりないふたり』


 先日見た『明日のたりないふたり』は「『あったかもしれない未来』と増えていく『できなかったこと』」に対し真正面から向き合い、それを目の前で乗り越えていく。 そんなライブだった。

 「たりないふたり」は南海キャンディーズ・山里亮太(以下、山ちゃん)とオードリー・若林正恭(以下、若林)によるユニットだ。人見知りで社交性・恋愛・社会性の“たりない”ふたりが、毎回さまざまなテーマを元に各々のたりない部分を暴露しあいながら、最後はそれらの恥部をすべて漫才に落とし込んで披露する。12年間、紆余曲折あった「たりないふたり」は、自身の「たりなさ」を笑いにするところから始まったのだけど、年月を重ねることによって、中身は「たりない」まま自分のステータスだけが上がっていく。ゴールデンのMC、冠番組を持ち、女優と結婚、etc…


 外から見れば「たりている」ふたり。そんな自分達が「たりない」「たりない」と自虐や僻みをしてもそれはもう受け入れられないんじゃないか?自虐や僻みは捨てて次のステップに進まないといけないんじゃないか?「たりないふたり」は2019年から「たりなさ」を乗り越え、新しい武器を見つける方向に進み始めた。

 2020年、山ちゃんは若林が「あちこちオードリー」で「たりている」側に行ってしまったけれど、自分だけ「たりていない」側に置いていかれているという引け目を感じていた。「たりないふたり」も若林が山ちゃんを「たりている」側に誘導しようとする方向で進んでいた。

 「たりないふたり」完結編かつ解散となる今回のライブ『明日のたりないふたり』もここから始まる。「たりている側」に行ってしまったように思える若林と「たりない」側に取り残された山ちゃん。しかし、次第にライブの流れが変わってくる。もはやエンターテインメントと呼んで良いかすらわからない、生身の叫びが始まった。

 「たりなさ」とともに生きてきた二人が、これじゃダメだって必死に新しい武器を見つけようとしたんだけど見つからない。「たりている」側に行くという「あったかもしれない未来」に向けて模索してきたけれど、その未来は「あったかもしれない」だけで「無かった」んだなぁと呑み込んでいくようだった。でもそれは、簡単に笑いにして受け入れられるものではなくて、激しく声を荒げて、体でぶつかって、涙を流しながら、全力で2時間かけて呑み込んでゆくのだ。

 自分の弱さを受け入れるってこれほどに激しいものなんだと思い知らされた。

 これは、40代のある種の諦念なのかもしれない。しかし、そこに全くネガティブな要素がなかった

 「たりなさ」というのは弱さでもある。しかし、「弱さ」というのは絶対的な物差しがあるわけでもなく、相対的に見られるものでもない。他人から「弱い」と判断されようと、自分で弱いと判断しなければ、それは自分にとっての「弱さ」ではない。「弱さ」というのは、どこまでも主観的なものなのかもしれない。

その、自分で定義した「たりない」という弱さを、「自分は『たりない』です。だけど、乗り越えることはできませんでした。これまでも、今も、これからも、ずっと『たりない』です。この『たりなさ』と一生、付き合っていきます。」と二時間かけて呑み込んでいくようだった。

自分で定義した「弱さ」を「弱い」と認めることができた瞬間に、それは「強さ」になる。そう感じた。

これは『修行論 / 内田樹』が言うところの「「敵」というのは「敵」として存在するのではなくて、個人が「敵」だと定義して生まれる概念」ということと同じなのかもしれない。


 「たりなさ」を「敵」視してきたけれど、共存すると決めた瞬間だった

 だからこそ、そこには一切、ネガティブな感情はなかった。

 「たりている」側にいけないことが同情の涙を生むのではなくて、自身の「弱さ」を真正面から向き合って、文字通りボロボロになりながらも受け入れていく姿勢があまりに人間臭くてかっこよかった。

 「たりなさ」を「たりない」と言えることは強さだし、12年前に「たりないふたり」と名付けた時点で、「たりなくてよかった」に向かっていたんじゃないかとさえ思える。

 「『あったかもしれない未来』と増えていく『できなかったこと』をどう乗り越えるか」。敗北ではない諦念。敗北ではない受け入れ方。このテーマの一つの解答がそこにはあった。

 やっと自分がスタートラインに立った道を、目の前で乗り越えてゆく。

 そんなライブだった。


(おわり)

※この記事は2021年7月2日に書いた文章を加筆編集したものです。


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